もりたのおもしろいものたち。

雑記:隣の女子高生がポエムを書いてたから、負けじとノータイムで書いた文章を公開する。

 

 先日、電車で横に座ってる女子高生がメモに一生懸命ポエムを書いていたので、なんか悔しくなって何も考えずにただ書いた文章が発掘されました。

 

 見なくていいです。

 

 

 

 フランクだかなんだか誰が言ったかはどうとして、「もし私が神だったら、私は青春を人生の終わりにおいただろう」という言葉がある。「蝉じゃん」というのがそれを聞いた僕の感想であり、そうなってくると蝉が神に寵愛を受けた神聖なる生き物にも見えなくもないな、とも思う。蝉っていいよね。蝉生(蝉の人生)のクライマックスが実にわかりやすくて。あいつらはただ7年待ちわび続けた生殖行為のためだけに声を枯らし、鳴き続ける。蝉ックスがどんなものかは知らないけれども、それはもう情熱に溢れるものなんだろう。

 

 そんな蝉ックスのことを考えていると、蝉の裏側が苦手なことを思い出した。どうして昆虫というのは、裏側が複雑奇怪になっているのだろう。生き物の神秘たるやと言えば聞こえはいいが、実際問題個人的には気味が悪い。それにしても、実際問題という言葉の四字熟語になりすましている感は異常で、一体全体も一体全体なにがなんだかわからない。そういう言葉はすごく好きだけども。

 

 なんの話だっけ。蝉の神話生物感がすごいという話だっけ。蝉とは、7年の練習期間を乗り越えて夏の襲来とその命を以ってして、夏の終わりを告げる生き物である。神の定義ならばそれだろう。7年とは義務教育も驚きの期間だ。彼らは7年の間を孤独に生きている。孤独に土のなかで生きている。そのハングリー精神はとんでもない。蝉らはどういうモチベーションで7年を過ごしているのか。童貞のまま、だ。蝉の一生が7年なので、人間で言えばおじいちゃんだ。おじいちゃん蝉ックスだ。ところで僕がずっと蝉の生殖行為のことを、蝉ックスと呼んでいるが、それはちゃんと伝わっているのか。皆目疑問だ。そんな蝉達はもしかしたら、使命を常に理解しながら生きているのかもしれない。彼らは来るべき7年後を待ちわびて、土の中を耐えしのいでいるのだ。臥薪嘗胆だ。

 

 臥薪嘗胆という言葉の謹賀新年感をわかっていただける方はいるだろうか。なんなら中学生くらいまでの僕は、臥薪嘗胆を正月単語として記憶の隅にぶち込んでいた。意味は全然めでたくなかった。むしろ憎しみに溢れていた。そんな薪に伏し、胆を嘗め、辛酸を浴びる日々を過ごしてきた蝉に対していささか僕たちは横暴を働きすぎてはないだろうか。うるさいだの、気持ち悪いだの、そんな言葉を投げかけてはいないだろうか。ここまで読んだあなたなら、蝉に対して如何なる感情を抱くだろうか。慈愛? 恋慕? 畏敬? 僕が思うのは、「うるせぇから2度と地面から出てくんな」である。

 

 

 

 ここまでやりきってから、女子高生の画面をチラっと見たら

 

「どんな時でも 立ち上がるんだ 座り込んだら もう立ち上がれられないから ずっと ずっと」

 

 って書いてあって、まじでせやなって思ったし、育ちの差を感じた。

 

 なんだよ、蝉ックスって。