「5分小説」人類最後のミステリ作家。
「それも被ってる」
その言葉を聞くやいなや、首をかきむしりはじめた男は、唸り声を上げながら苦悶の表情を浮かべる。そのまま皮を引き裂いて血が溢れんばかりの勢いであり、古傷のようなものが数え切れないほどあった。男は困り果てると、首を右手でかきむしる癖があった。ヒステリックな男であり、また物書きでもある。その証拠と言わんばかりに、畳六畳の自室にはちゃぶ台がひとつあり、それを装飾するように書きかけの作文用紙が数え切れないほど散らばっている。売れない古風な作家の部屋を想像していただければ、ほとんど違わないと思われる。男もまたそう思われるように、この部屋を仕立て上げた。
部屋の中心に吊るされた古風な照明器具からは紐が垂れ下がっている。スイッチである。その紐の真下で首をかきむしることをやめた男は、あぐらをかいていた。頭を抱えており、身にまとった藍色の浴衣の袖が微かに揺れている。この部屋の全てが、現代のものとはかけ離れており、劇の壇上のようで、さらには男の頭上でぶら下がる紐が、彼を操り人形のように見せていた。
先ほどの声の主は、男の横に座っている女である。この部屋に似つかわしくない現代的な服装をしており、もう慣れてしまったのか男の奇行には目もくれず、小説を読んでいる。鯨が描かれた可愛らしいブックカバーを持つ手の爪には、泡を彷彿とさせる海色のネイルが施されており、髪色は夏の快晴を思わせるような青色である。男とは全くかけ離れた存在であった。許されている自由、その全てを使い切ったような出で立ちである。
「いったい誰だよ」
頭を上げ、ぶっきらぼうに問うた男に、女は瞬時に答える。
「だいたいね、もう一つ死体を用意して、アリバイを改ざんするなんてトリック、探せばまだまだあると思うわよ」
「じゃあ、登場人物全員犯人」
「アガサクリスティ。オリエント急行殺人事件」
「探偵が犯人」
「動物が犯人」
「エドガーアランポー。モルグ街の殺人事件」
つらつらと、男の顔をちらと見ずに女は答えた。しばしの沈黙のあとに、ページをめくる音が部屋に響く。男は女の横顔を睨む。青色の髪が似合う白い肌をしており、それを彩る化粧は厚く、口紅が光を反射している。男は女の、いわゆる素の顔を見たことがないことを思い出す。しかし、そんなことよりも考えなければならないことがあると、男はまた首を緩やかに掻きはじめた。ぼりぼりという音と共に、小さな声が女の耳に聞こえた。
「生まれる時代を間違えたんだ、俺は」
「俺がもし、アガサクリスティ、江戸川乱歩。そんな、この世に名を残した全ミステリ作家よりも先に生まれていたら、きっとこの世にミステリ作家は俺しかいなかったと思うよ」
男は神への恨み言をつぶやく。何度も何度も妄想していたことだった。そこまで、自分にはミステリの才能があると疑わなかった。もうすぐ男が生まれてから三十年は経つ。最初の十年で古典ミステリを読みあさり、それからはミステリを読むことを辞めた。
「それか、俺のパクリオマージュ二番煎じ。それしかなかったはずだ」
俺が嫌うものだ、と男は心の中で続ける。男がミステリを読まなくなったのは、いつか自分がミステリを書く際に、万が一にも頭の隅に隠しておいたトリックの参考書があたかも神の助言のように降りてくるのを防ぐためであった。知らず知らず、参考、いやここは男の言葉を用いて、パクリと呼ぶものを行いたくなかったのだ。
「それは残念」
彼女は一瞥もくれず、読みふける小説の台詞を引用したかのように棒読みでそう答えた。
「なあ、エジソンがもしこの時代に生まれていたら、どうなると思う」
男はそんな女を見て、またぼりぼりと首を掻き始めると、自分への問いかけか女へ言ったのかわからないようなうわ言をぽつりと呟いた。
「ありえないことを言うね」
女はようやく顔を上げた。男と目が合う。黒い瞳を覆い隠すようにはめ込まれた水色のカラーコンタクトは、女を人間でないものに感じさせる。
「まぁ、絶対ありえないけどさ。たとえの話だよ」
「人類の発展が、思っていたより遅く始まるだけよ」
きっとまだ電話もなかったに違いない。女はそう続ける。
地球が五十六億年の歴史を持ち、その中でもこのわずか数千年で人類が生まれ、良くも悪くも地球の姿を変え、新技術を生み出した。こんなのありえない。と書いてある書物を読んだことを女は思い出す。それから、これは神の御意志だ。神とはわたしだ。崇めよ。と、その続きを思い出した。ひとり苦笑する。
いつの時代も新興宗教は存在する。日本では八百万の神々と言うが、もうここまで来ると八百万でさえ足りないかもしれない。宗教戦争なんてものが昔起こったとは考えられない。いまの人は神様に寛大だ。良いことかどうかは知らないが。
「エジソンが生まれたのは、神のご意志だよ」
そこまで思考してから、女は引用してそう言った。心の中で、注釈としてタイトルと著者名をあげる。
「もう少し長期的な目線でゆっくり戦力を投入して欲しかったね。神ってのは、きっと短気でせっかちな奴に決まってる」
それはどの神に言ってるのか。女はそう問いたかったが堪えることにした。
「まったく発明っていうのは、いいな。それに比べて、芸術はいつだって早い者勝ち。生まれた順さ。後発の俺達は、いつだって先人達の隙間を通り抜けなきゃならない」
そうじゃないと批判されるからな。ミステリが廃れた原因だぜ。さらに男は愚痴を続け、親の敵を上げるように先人の文豪達の名を連ねた。その途中で、なにかを思い出したように大きく口を開く。少し興奮しているようだ。
「それに科学の発展も、ミステリ作家にとっては大問題なんだ。できないこととできることがもうすっかり分かっちまうんだから。昔なら出来たトリックが今の科学で否定される」
先人と科学。それがミステリを書く上で、男が最も嫌っているものだった。
「なら、時代背景を昔にすればいいじゃない。江戸とか」
「俺は、現代でも行えるトリックを思いつきたいんだよ」
ヒステリックで、物書きで、更には強情な男だと女は思った。
「そういえば、クローンに自分を殺させるとか、ナノマシンでの殺害とかあるのよ。あれは科学が進歩してなかったら、あり得ない」
女がそう追求すると、男はぼりぼりと首を掻いた。困っている。
「俺は、そんなのミステリと認めたくない」
そんなのSFじゃないか。古典ミステリしか読まない男は、弱々しく呟いた。
あんたが読まないだけで、昔、SFミステリというジャンルが一世風靡したんだよ。と、女は口に出さずに呟いてから、書物に目を戻した。
「そういえば、紙の本なんて珍しいな。今のご時世に」
少し時間が経ち、男はブックカバーをちらと見て言った。
「あんたは知らないと思うけど、いま時代はレトロブームなんだよ」
文頭に、部屋からでない。と女は付け加えたくなった。男の世話を、女はしている。昔で言うパトロンのようなものだ。食料や衣類を与えている。それほどには、女は男を愛していた。
「レトロブーム?」
世俗に疎い男は首をかしげる。
「紙の本だとか、鉛筆だとか、そういう昔ながらのものが流行ってるんだよ」
「鉛筆なら、俺も使ってるぞ」
浴衣の袖から、小さくなった鉛筆を取り出すと、さも流行の最先端を気取るように原稿用紙に鉛筆で線を書いた。男は自分の時代が知らない間に訪れていた、と舞い上がっている。その応酬とばかりに、女は冷たい目を送る。
「あんたは元からレトロだろ」
「仕方がない。ミステリ作家とはこうでなければならんのだ」
そう言いながら、畳、ちゃぶ台、浴衣、と目線を動かす男は最後に女を見て、口角をあげた。自分が想像するミステリ作家と、同じ姿に仕上がっていることに満足しているのだろう。実のところは、全て女が与えたものだった。
「日本以外の文豪に怒られるね。その発言は」
ミステリの女神、アガサクリスティに説教されればいいのに。そう、女は思った。
「どんなのなんだ」
「なにが」
「それ」
顎で男が指したのは、女が読む文庫本だった。
「ラブコメ」
正確には、農作業用アンドロイドに恋した女の子の話だった。
「ラブコメか、いいね」
「思ってもないことを言うな」
「俺は、本は読まんからな」
そんなやりとりのあとに、男は自慢げに言った。
「矛盾してるよ。本を読まずに、本を書くなんて」
女は前々から思っていた不満を告げる。
「それも逸話になって、評価されるんだよ」
そう言われることがわかっていたかのようにそう言うと、
「世界中が俺を神様みたいに崇めるんだ。ボブ・ディラン。アガサクリスティ。そして、俺」
大言壮語を女に告げた。宣告のつもりかも知れない。
あんたも神になるのか。女はそう思った。そして、じゃあ神様を飼っている私はどういう立ち位置になるのだ、とも思った。
「神様なんかじゃなくて、あんたは貴族だよ」
人の力だけで、生きている。昔の貴族にしか見えないじゃないか。女はそう言いたげだった。
「貴族っていうのは、今の人間全員だ。昔は、芸術や文学は暇を持て余した貴族の特権だったんだよ。農民は生きるのに必死だったからな。今の人間ってのは昔の貴族みたいだろう。暇を持て余して、芸術にうつつをぬかしている。なんせ働かなくていいんだからな」
男の言葉通り、男は働いたことがなかった。男だけではなく、横にいる女も、果ては世界中の人類全員が働いたことがない時代だった。男が嫌う、忌々しい科学の発展によるものである。アンドロイド技術の発展により、全ての仕事はアンドロイドが成り代わって行うようになった。賃金もなにも必要ない。そうして全てのものが無料になった。アンドロイドの反乱も起こることなく、人間の統治が続いている。そうして神が人類に暇を与えた時に、人々は音楽や芸術に手をつけ始めたのだ。
「終わることない、貴族ブームだ」
忌々しそうに、何処か遠くを睨みながら男が呟いた。
「科学が、ミステリを腐らせた」
年収などではなく、人が芸術で評価される世界になってしまった。それがどうしてミステリを腐らせたのか。全ての文学はデータ化されて保存され、誰しもが無料で閲覧出来るようになってしまった時代は、ミステリにとって息苦しかった。何度も男が言っているとおり、ミステリに重要なのはトリック。全ての文学がデータにある中では、よく似たトリックは昔の文学からすぐに発見されてしまったのである。
どんな世界になっても、人の足を引っ張るのは人の業。芸術で評価される世界で二番煎じだと批判されるのは致命的であった。だから、ミステリは廃れたのである。
「きっともうあんたが最後のミステリ作家だよ」
ほかのみんなはそのジャンルは諦めている。とも、女は言いたかった。
「それは光栄だ。だったら、それこそ、誰しもが今まで一度も思いつかなかったトリックを思いつかなきゃならない」
まだ一度も書ききったこともない男は、それが自分の使命だと言わんばかりに笑った。
「楽しみだね」
そんなところに、惹かれたのかもしれない。女も釣られて、笑った。
久しぶりに女が心から笑うのを見たかもしれない。そう思った男は、女の顔を見る。そして、大きく深呼吸をして、声を出した。
「俺はね、この世界がどれだけ発展しようとも、どれだけのネタが使われようと、この数千年、絶対に誰もが思いついていないようなトリックでミステリを書くよ。たった一冊でいい」
女はただその独白を聞くだけだった。
「そしたら、それを書き終えたあとで、檸檬型の爆弾で自爆するんだ。そう、梶井基次郎リスペクト。文豪ってのは、よく自殺するんだ。でも、きっと爆弾で自殺した奴はいない。そうだろ?」
にやりと笑う、男。
「いるよ」
女は言って、
「松永弾正」
そう続けた。
おいおいまじかよ。という声が部屋に響いた。